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55話 春になった日

last update publish date: 2026-09-19 16:30:34

 三月になった。

 ルシェムに、本格的な春が来た。

 市場に花が並び始めた。道端の草が緑になった。朝の空気が、冬とは違う温度を持ち始めた。

 エリナは朝、台所の窓を開けると、外の空気を少しだけ吸った。

 冷たくない。

 冬の間、ずっと冷たかった朝の空気が、今日は冷たくなかった。

 それだけのことだが、少しだけ嬉しかった。

 この一週間で、いくつかのことが動いた。

 まず、学院から正式な連絡が届いた。

 来年度から「衛生基礎」という科目を、学院の一般課程に設けることが正式に決定した、という通知だった。

 師匠の署名が入っていた。

 魔法師団長の副署もあった。

 ゴードンがその書類を読んで、静かに言った。

「正式に決まりました」

「そうですね」

「アッシュフォード商会の商品が、教材として使われることになります。来年度から」

「来年度、ということは、今年の秋から準備が始まります」

「供給の計画を、早め
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     フィオナが帰ってから、一週間が経った。  ルシェムに、少しずつ春の気配が来ていた。  朝の空気が、冬の頃より少しだけ柔らかくなった。市場に並ぶ野菜の種類が変わり始めた。井戸の水を汲む人たちが、厚手のコートを脱ぎ始めた。  ルナが、採取できる薬草の種類が増えてきた、と言った。   「春の薬草は、冬のものより柔らかい」 ルナが棚を整理しながら言った。「効き方も少し違う」 「どう違いますか?」 「冬の薬草は、重い効き方をする。春のは、軽い効き方をする」 「どちらが良いですか?」 「症状による。重い症状には重い薬草。軽い症状には軽い薬草。合わせることが大事」 「ルナは、どうしてそれを知っているのですか?」 「見ていたから。植物が、季節によって変わるのを、ずっと見ていた。廃屋の前で、一人でいた頃から」 「そう」    エリナは少しだけ、ルナの横顔を見た。  あの日から、一緒にいる。  あの頃のルナは、もっと無口だった気がした。  今も無口だが、以前よりは少し言葉が出てくる。 その週、レインから手紙が届いた。 エリナへ   『あなたの手紙を読む時に、少し充電される感じがします』という言葉を受け取った。  俺も、同じだと思う。  お前の手紙が来るのを、楽しみにしている。それが、最近の学院での一番の楽しみかもしれない。  うまく言葉にできないが、あることは確かだ。  それから、一つ。  来週、ルシェムに行けるかもしれない。学院の衛生教育の件で、現場を見たいと師匠が言っている。師匠と 一緒に来ることになりそうだ。  都合が悪ければ、言ってくれ。                                         ――レイン―― エリナは手紙を読んで、少しだけ止まった。  来週、来るかもしれない。  師匠と一緒に。  都合が悪ければ言

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     フィオナがルシェムに来たのは、謁見から二週間後のことだった。 予告なしだった。 朝、市場から戻ったマリオが、息を切らして事務室に飛び込んできた。 「フィオナさんが来た」「どこに?」「市場の入り口。馬車で来てる。荷物が多い」「荷物が多い?」「トランクが二つある」  エリナは少しだけ止まった。 「泊まりではなく、しばらくいるつもりですか」「そういうことじゃないか? 迎えに行くか?」「行きます」 市場の入り口に着くと、フィオナが馬車の横に立っていた。 久しぶりに、ルシェムで見るフィオナだった。 王都で会った時とは少し違って見えた。服装は変わらないが、顔が少し違う。 疲れている、と手紙に書いていた。 確かに、少し疲れた顔をしていた。 でも、エリナを見た瞬間、目が変わった。 「来た」「来ましたね、予告なしで」「予告したら、準備されすぎると思って。あなたのことだから、部屋を完璧に整えて、食事まで用意して待っていそうだから」「そうしようとしていました」「でしょう。だから、言わなかった」「荷物が多いですね」「しばらくいようと思って」 フィオナが少しだけ声を落とした。「王都からの仕事は、手紙でできる部分も多い。しばらくルシェムで動きながら、こちらの空気も吸いたかった」「どのくらい?」「一週間か、二週間か。決めていない」「決めなくていいです。いたいだけいてください」 マリオが荷物を運んでくれた。 フィオナが見ると、少し驚いた顔をした。 「マリオ、大きくなった?」「なってないと思うけど、フィオナさんが久しぶりに会うから大きく見えるだけじゃないか?」「そうかもしれない。でも、なんか違う。顔が違う」「どう違う?」「前より、落ち着いた顔をしてる」「そうかな」 

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     翌日から、エリナは動き始めた。 といっても、急いでいるわけではなかった。 落ち着いて、一つずつ。 謁見の翌日以降に何をするかは、帰り道の馬車の中でゴードンと話し合っていた。 優先順位は決まっていた。  一つ目、商会の代表変更の正式書類を処理する。二つ目、各町の現場責任者に謁見の結果を報告する。三つ目、フィオナと連携して規制案の継続審議への対応を続ける。四つ目、学院の衛生教育の検討に、商会として協力できることを提示する。  どれも、急ぎではない。 でも、止まってもいない。 まず、商会の代表変更の書類が届いた。 アルバ殿下が約束した通り、一週間以内に書状が来た。 正式な書類に、エリナ・アッシュフォードの名前が入っていた。 アッシュフォード商会の代表者、エリナ・アッシュフォード。 ゴードンがその書類を机の上に置いた。 「これで、正式になりました」「そうですね」「どういう気持ちですか?」  エリナは少しだけ考えた。 「思っていたより、静かな気持ちです」「静か、とは」「もっと大きな感情が来ると思っていた。でも、静かだった。当たり前のことが、形になった、という感じです」「それが、正しい感覚だと思います」ゴードンが静かに言った。「当たり前のことを積み上げてきたから、当たり前に形になった」「ゴードンさん」「はい」「代表名義をずっと引き受けてくれていた。本当にありがとうございました」「礼はいりません。でも、受け取ります」  それだけだった。 それで十分だった。 次に、各町の現場責任者への報告をした。 マグダ、シェナ、ジルカに、それぞれ手紙を書いた。 謁見の結果。陛下が約束を守ってくれたこと。商会の活動が引き続き認められたこと。今後も続けることができること。 返事は、それぞれ三日以内に来た。 マグダから。 エリナちゃん

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